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遠州横須賀 清水邸2
廻船問屋清水八十郎の遺構
遠州横須賀藩の御用商人であった清水八十郎の先祖は、もともとは江戸時代の中期に伊勢の国から流れ着き、横須賀の町で海運に携わり横須賀藩に取り立てられたようです。当主である初代の八十郎とされる人物は寛政年間くらいから記録には現れているようです。
廻船問屋として横須賀湊を拠点に物資を流通し、江戸や上方ともネットワークを形成していました。江戸蔵前の商人、来家多七の手代であったとも言われています。
江戸時代の中頃まで、遠州横須賀の城下は遠州灘から入り江が町の中まで入り組んでいました。
横須賀の街の物産や江戸や地方の物産が横須賀湊を拠点として清水八十郎をはじめとする数軒の大店(おおだな)の蔵に集積され横須賀街道を通じ周辺各地に流通していました。
宝永の大地震(富士山噴火)以来、この地では何度かの地震などによる地形の変動で陸地が隆起して横須賀湊は使えなくなり、はるか南西にある太田川の河口にある福田(ふくで)の湊から水路を経て物資が横須賀の街に運ばれるようになりました。
横須賀藩の御用商人としてばかりでなく、城下の火災や地震の被害にさいしては義援活動を行うなど八十郎は様々な貢献をしてきたと伝えられています。
現在の清水邸本宅の主屋は、幾度かの改築を経て慶應年間に建てられたものと推定されています。まさに幕末、安政の大地震の後に大普請が行われたものでした。築150年の歴史を物語ります。
上:大土間もかってはこのように賑わっていたのでしょう。
左:蔵が何棟か残っています。
下:かっては蔵の南に船着場がありました。「船着門」として復活しました。
右:かっての横須賀の街図と現在の街の航空写真。
下左:かっての廻船のネームプレート「幸来丸」が残っています。
由来など
初代の清水八十郎:寛保年間生まれ(清水家の資料から)
二代の清水八十郎:天保3年没
(清水家の資料から)
JR東海道線 掛川駅
JR東海道線 袋井駅
静岡空港
横須賀城下、清水八十郎大店はこのあたりに。入り江に湊がありました。
下の航空写真は掛川市横須賀の町で、上の絵図とほぼ同位置が江戸時代と比較できます。
現在の清水邸本宅主屋は横須賀、西本町にあります
明治時代に遠州地方の旧家を紹介した版画集にも紹介されています。
ラジコンヘリで上空から撮影された清水邸本宅と清水邸庭園の一角。
バス停留所「新横須賀」から見た清水邸本宅の土蔵。
かっては横須賀の城下の街には
水路がありました。
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